第一章
拾われたときのことは、もう薄っすらとしか覚えていない。
ただ記憶にあるのは、無我夢中で家を飛び出したことと、その後見た穢れた世界。
「どうした。そんな暗い顔して」
「いつものことだろ。ほっとけよ」
此処に来てもう何年になるのか。無機質な、檻みたいな部屋。
俺を閉じ込めておくだけの、単なる牢屋。
こいつが俺の目の前に現れたのは、そう、あの日だ。
母親が死んで数日が経った日。親父の暴力が、エスカレートしはじめたあの日。俺は、家を出た。
もう何年も昔のことだけれど。俺は、あの時死んでいれば楽だったのかなと今でも思う。
「拓也(たくや)、なにを考えているのかは知らないが。お前に売った恩、忘れているわけじゃないだろうな」
「忘れてねぇよ。だから此処に居るんだろ。俺は、あんたの人形だよ」
そう、俺は買われた。この男に。
あの男から、救われて、そして縛られた。
逃げ道のない、この牢屋に。
「人聞きの悪いことを言うな。俺はお前を愛している」
ふざけたことを。茶番にしてもほどがある。
「愛、か…。あんたは単に、俺の体が欲しいだけだろ」
「そのための人形なら、いくらでもいるさ」
「俺はそのうちの一人だろ」
子供っぽいのは自覚している。
俺は16。まだまだ子供だろ?
親父も醜いよな。金のために、わが子を売って。
それで尚且つ、幸せになれか。…無理に決まってるっての。馬鹿みたいだ。
「お前はそうあって欲しいのか」
「さあね。俺はあんたがどうあったって、知ったこっちゃない」
そう。あんたが俺以外の誰かと抱き合っていようとも。
俺には関係ない。なんたって、俺は単なるあんたの人形。あんたの奴隷。
「私が愛してるのはお前だけだよ」
「お褒めにあずかり光栄です。ご主人様」
皮肉たっぷりに笑ってやるとあんたはただ苦笑して冷ややかなキス一つ寄越す。
暇なんだね。こんな子供を構うってことはさ。
余程飢えてるんだな、こいつはさ。
あんたくらいの人じゃ、相手には困らないだろうに。
馬鹿だよ。あんたは。
+++
あいつが来るのは、極まれに思えた。週一くらい。それでも、社会人なんだからいい方か。
俺はあいつの名前を知らない。初めに教えられた気がするけど、呼ぶ気にはなれなかった。
生活に必要なものはある程度揃っている。食べ物も、宅配だったり持ってきたり。
ないものと言ったら、テレビ・ラジオ、友達、外を出歩ける自由だ。
外から遮断された世界。
出るなと言われてはいるものの、出れないわけじゃない。
逃げ出そうと思えば逃げられるのに、俺はそうはしない。
なんとなく、逃げても無駄な気がしたから。
俺の居場所は此処にしかない気がするから、だから俺は此処にいる。
いつからかあいつだけが、唯一俺が知っている人となっていた。
「入るぞ」
不意に声がした。此処を訪れるのはあいつしかいない。
だから、不審にも思わないし、警戒もしない。
泥棒や殺人犯なら、俺をこの世界から解き放ってくれるだろ?
だからそういう意味でも、警戒はしない。
「無用心だな」
「あんた以外誰が来るんだよ」
「さあな」
ま、隣の部屋の人とかもたまに訪ねてくるけど、居留守使うと帰ってくし。
第一チャイム鳴らさずに上がりこんでくるのはお前くらいだっての。
「拓也、欲しいものはあるか」
「どうしたんだよ、急に。欲しいものなんて、人形の俺にはそんな贅沢な欲はありません」
「相変わらずだな、お前は。そんなとこも気に入っているのだが」
「っ……」
不意に押し倒されて、圧し掛かられる。
「んっ…」
舌を入れられ、絡められて。なにをそんなに強欲してんだこの人は。
逃げようとしても頭を抑えられて、逃げられない。…煙草臭い。
「っは……」
やっと離されたと思ったら、息はもうあがっていて。
こいつはこいつで変な表情だし。
「拓也」
「…なんだよ」
「明後日出かける。準備しておけ」
「俺も…?」
「当たり前だ」
どういう風の吹き回しだよ。今の今まで外出なんてさせなかったくせに。
「了解。ご主人様」
主人命令は絶対。まあ、断る理由なんてないしな。理由を訊ねる気にもなれないし。
思えば、もうすぐあの季節…。路上で彷徨っていた俺があいつに出会った、あの、季節。
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